ただの女の話

「大丈夫、五体満足で帰ってくるよ」

 そう言って笑ったあの人は、そのまま帰ってこなかった。
 遺体すら帰ってこなくて、手元に残されたのは彼がお守りにと持っていった小さなロザリオと、首から下げた認識票であるドッグタグだけだった。
 彼は幼馴染だった。
 酪農を営む家に生まれ、まだ10才にもならないような齢の頃から働いていた。
 荷馬車を引かせたロバを連れて何度も街と牧場のある山を往復していた。
 その道すがらに私の家が営む宿屋があったのは偶然で、昼食と称して訪れた日から、毎日私の家で休憩をするようになっていた。
 いつも朗らかに笑う彼に惹かれていると気がついたのは随分遅かったように思う。
 いや、彼に真っ白なケープを贈られ、控えめな告白された17才の冬に初めて自分の恋心に気がついたのかもしれない。
 彼は私より年下だったけれど、私には兄がいたので結婚に反対される事は無かった。
 数年後の春、私は彼と結婚した。

 けれど、幸せな日々は長く続かなかった。
 次の年の春に、彼に徴兵状が届いたのだ。

 牧場の次男坊だった彼に徴兵のお触れが出たのは当然だったのかもしれない。
 領主様のお触れに反対したら、彼の家がどうなるか。
 想像するだけで恐ろしかったが、優しい彼が剣を振るい、誰かを殺めるかもしれないと思う方がもっと恐ろしかった。

 けれど、彼は笑ってこう言った。

「市民から集めたへぼへぼの兵がそう簡単に前線に出されるわけがないよ。領主様にはもう立派な軍隊もいる。大丈夫、エナ。必ず君の所へ帰ってくるから」
「でも、戦場では何が起こるか解らないんでしょう?」
「もしもそうなったら、上手く逃げおおせてやるさ。僕は逃げ足は早いんだよ」

 そう、言ったのに。

 彼の上官だと言う騎士様は、夫が如何に勇敢に戦ったか語ってくれたが、その殆どは私の耳には届かなかった。
 ただ、もう二度と彼に会えないのだと、彼の笑い声を聞くことは出来ないのだという事実だけが、私の身を苛んだ。

 もう夫はいないのに彼の家にいるのも躊躇われ、私は彼の家族に別れを告げて街にやってきていた。
 私の育った村とも、彼の育った山とも違う、賑やかな街並み。
 こんな場所で、女が一人で生きていくなんて出来るのだろうか。
 なんの取り柄もない、ただの女である私が。
 ただ、ふらふらと街を歩く。
 途中で、娼館らしきものも見かけた。
 その近くで、男を誘う女性も見かけた。
 ……私も、あんな風にして生きていくしかないのだろうか。
 けれど、私にはもう、若さもない。
 私には、何もないのだ。
 何度か人にぶつかり、その度に頭を下げ、気がつくと私は教会の前に立っていた。

 彼が信じた神様。
 それなのに、彼の命を見捨てた神様。
 私は、神様に言いたいことが山ほどあった。
 重いドアを開くと、夕日に照らされたステンドグラスが床に虹色の影を落としていた。
 ミサもない平日の教会は静まり返っていて、年老いた神父様が聖書を捲る音だけがやけに大きく聞こえた。
 神父様は私に気がつくと、眼鏡を外しながら優しく笑う。

「迷える子羊よ、どうされましたか」

 私は、言葉が出なかった。
 あんなに言いたいことがあったのに。
 なにも、頭に浮かばない。

「心配しなくてもいいですよ。この場所は誰も拒みはしません。神は全てを受け入れ、全てを慈しみます。さぁ、こちらへ」

 神父様に促されるままに、私はふらふらと長椅子に腰掛ける。

「随分と疲れているようですね。少し待っておいでなさい。温かいミルクを入れてあげましょう」
「そんな、御厄介になるなんて」
「ここは迷い子の集う場所。遠慮はいりませんよ、お嬢さん」

 神父様は温かいミルクに蜂蜜を溶かしたものをカップに注いで戻ってきた。
 それを私の手に握らせる。
 神父様の手の温かさと、カップから伝わる温もりに、思わず涙が零れ出た。
 同時に、言葉も溢れ出る。
 愛する人を永遠に失った悲しみ。どこにぶつければいいのか解らない憎しみ。自分がこれからどうすればいいのか解らない嘆き。
 とりとめのない私の言葉を、神父様はそれを黙って聞いてくださった。

「貴女は随分迷われていたようですね。さぞお疲れになったことでしょう。今はゆっくりお休みになられてください。大丈夫、ここは神の見守る場所です。誰も貴女を傷つけません」
「けれど、神父様。彼の信じた神様は、彼を見捨てたのではないのですか? 彼は、私の元には帰ってきてくれませんでした」
「貴女の旦那様は、さぞお優しい方だったのでしょう。神はきっと、彼が誰かを傷つけ、自分を憎む前に天へとお運びになられたのです。さぁ、ミルクが冷めてしまいますよ」

 彼は優しい人だった。
 牧場で飼っている動物たちが少し体調を崩すだけでも狼狽えるような人だった。
 動物たちが育ち、食肉へとなる日は神への祈りは欠かさなかった。
 彼が人間に剣を、槍を、弓を向ける所なんて想像もできない。
 それでも彼は、家族を、家を守る為に戦場へと向かった。
 彼が罪の意識に苛まれるとすれば、それは誰かを傷つけた時だ。
 そうなるよりも、神様の近くに行く方が彼の幸せだったとするならば、私はそれを受け入れなくてはいけない。

 決意と共に、少し冷えたミルクを飲み込んだ。
 それを見て、神父様は仰られた。

「貴女の旦那様の肉体は、貴女の元へは帰れませんでした。それは事実でしょう。ですが、魂は常に貴女と共にあるでしょう。貴女が、彼を忘れない限り。それでも不安だと言うのならば」

 神父様は自分が着けていたロザリオを私の首に掛けて言葉を続けた。

「神に仕えるのが、良いでしょう。我が教会の修道院に身を寄せなさい」

 にこやかな神父様に、私は言葉を言いよどむ。

「ですが、神父様。私はもう清い身体でもないのに」
「大丈夫。どんなに汚れた存在でも、我らの神は拒みはしません。例え、それが死をもって償わなくてはならない人間でも。安心なさい。今日から、ここが、貴女の家です」

 私には、神父様の背に後光が差して見えた。

「神父様、私もいつか、貴方のように、誰かに愛情を与える事ができるようになるでしょうか?」

 私がそう訊ねると、神父様は深く頷いた。

「貴女に与えたいという心があるならば、必ず」

 そして私は修道院に入った。
 長かった髪を切り、神様に毎日お祈りをし、聖書を読み、学んだ。
 そして、それからまた、数年が経った。
 戦争に勝利し、浮足立った領民も落ち着いた頃。

「シスター・エナ。司教様からの伝言です。哀れな子羊に施しを与えるように、と」

 神父様にそう告げられ、私は修道服の皺を整えながら訊ねた。

「施し、ですか。それは、どちらに? スラム街でしょうか、それとも孤児院にでしょうか?」
「いえ、貴方が行くのは、牢獄です。死刑囚が収容されている……『キュノロドンの牢獄』です」

 私が孤独を抱えた死刑囚たちに出会うのは、それから数日後の事だ。


エナの昔話。 (文章:Bcar)

[17年 8月]

inserted by FC2 system